美智子さま“ご結婚”の社会的意義を考察する


文/稲生雅亮

大衆の心を揺さぶった「純愛」

周知のように、ご結婚に至るおふたりの「テニスコートの恋」は、当時はまだ競技人口も限られていたテニスというスポーツを楽しむ階層への憧れを交え、人口に膾炙していった。一九五七年(昭和三十二)八月十九日軽井沢のテニストーナメントで対戦をされたのが、美智子さまと皇太子の出会いであった。その後皇太子側からのお申し出に対し、その社会的立場の隔絶から美智子さまは固辞される。美智子さまは海外への旅に出られ、固辞するお手紙をお出しになる。美智子さまの帰国後、ご学友たちの協力を受けられた皇太子は、直接美智子さまにお会いになることができないゆえに電話でお気持ちを伝えられ、美智子さまは皇太子の愛を受け入れられる。

「小説美智子さま」において、海外出発前に美智子さまが母校聖心女子大学の学長マザー・ブリットのもとを訪れ心中をうち明けたとき、マザーは次のように語っている。「はっきりいいましょう。美智子の愛情は恋愛です。ほんとうの、純粋の恋愛なのです」「恋愛です。皇太子からは何も聞き得ませんけれども、美智子の話やいるいろのことを綜合すると、まぎれもない恋愛です。おそらく美智子よりも強い恋愛だと思いますよ」(一九六一年十月号/一四四頁)。

マザー・ブリットが「純粋の恋愛」と断言する以外、小山は作中で「純愛」という言葉を用いてはいないものの、一九六一年十二月号の小説が掲載された最終頁の欄外には「純愛をつらぬかれる美智子さまの苦しみは、そのまま皇太子さまの悲しみに通ずるようです」と書かれている(一三二頁)。これはおそらく、原稿を読んだ編集者が皇太子・美智子さまの愛のかたちを「純愛」と解釈したものであろう。そしてその解釈が読者にもそのままなされた可能性は高い。

また、編集者の解釈が最も入るのは、作品の掲載頁に大きな字で記載されたコピーであろうが、一九六一年十月号では「星の世界ほどもへだたったお二人の距離は目にみえぬ力で結ばれてゆくようであった——愛の歴史をつづる傑作小説」と銘打たれ、一九六二年九月号では「まことをつらぬかれた日本の若いシンボル愛の苦しみを描いて感動をよぶ長編小説!」と銘打たれている。

ご婚約を報じる『朝日新聞』一九五八年十一月二十七日夕刊六面には、美智子さまのご学友澤崎美沙さんの「妃になる友へ」と題された寄稿が掲載されている。その見出しは、「すべてに勝った愛情あなたは考えぬいたはず」である。以上から、純愛という「まこと」が「星の世界ほどもへだたったお二人の距離」をも超越し、「すべてに勝った」という「物語」を、見出すことができよう。

「ミッチー」すなわち美智子さまの愛は最終的には電話を通して結実したが、昭和三十年代には、もうひとりの「みちこ」の純愛が人びとの心を動かした。その「みちこ」の純愛は主に手紙を通してのもので、彼女のニックネームは、「ミコ」。すなわち、大島みち子さんである。周知のように、一九六四年(昭和三十九)に刊行された、難病に冒された同志社大生大島みち子さんと中央大生河野実さんとの往復書簡をもとにした『愛と死を見つめて』は、ベストセラーとなった。

昭和三十年代前半の美智子さまの純愛、そして三十年代後半のみち子さんの純愛は、昭和三十年代における純愛の系譜を織りなしているのではないか。そこにおいては、あらゆる次元のへだたりをも超えうるという純愛の持つ力がメディアに現れ、大衆の心をゆさぶった。

見合い結婚から恋愛結婚へ

このように、皇太子と美智子さまは純愛を貫き、結婚に至る。もちろん、その結婚は「恋愛結婚」である。ご婚約を報じる一九五八年(昭和三十三)十一月二十七日夕刊一面の「朝日新聞』の題字のとなりに縦に書かれた見出しは、「ご自身でえらばれた正田美智子さん(日清製粉社長令嬢)皇室会議で全員一致」である。

翌年二月六日衆議院内閣委員会で平井義一氏は、皇太子のご結婚は恋愛によるものなのかどうかを質問した。平井氏の回顧を渡辺は、「ご結婚は「恋愛」か「見合いか筐と題された連載第五回で紹介している(九月号/一五六頁)。

「その少し前に、元皇族だった方にお会いした時、『皇太子さまの今度の御婚約はどういうものでしょう』とお聞きしたんですが、その宮様は「僕は命令で(妃を)もらったんで、僕らの頃は好きだ嫌いだなんてことはまったく言えなかったよ」とおっしゃっていました。そんなことも、あの質問をする一つのキッカケになりました」

「小説美智子さま」の中でご成婚当日の模様が描かれたシーンの一部をたどりたい。

「この日、この幸福なお二人にあやかろうとして結婚式を挙げたものは、全国では二万組もあった。どこの式場も申込が殺到、一日ずらしたりしたが、それでも捌ききれず、超満員であった」。この二万組という数字や結婚式場がフルに稼働したことは、渡辺の連載にも登場している。

「半蔵門の角にあるT会館結婚式場でも、二十三組の挙式が行われ、特に菊の花模様のアルバムが記念品としてサービスされた。式は早朝からぶっとおしに次々と挙げられたが、二時四十六分、お馬車が通過するときには式も披露宴も一せいにストップしてしまった」。そして、花嫁・花婿は屋上にのぼり「神主も雄蝶雌蝶も緋の袴をつけたお神楽の巫女も、式場をそのままにしてみんな窓という窓に重なり合って、手を振っていた。ここにも時代のはげしい移り変わりがあり、美智子さまへの国民の親近感のあらわれがある」。

「四月十日の盛儀 皇太子ご結婚式グラフ」と表紙に調われた『週刊明星』一九五九年四月二十六日号のグラビアでは、半蔵門の東条会館屋上に顔を出した「あやかり婚の花嫁花婿たち」の写真や、パレードに「突然石を投げて馬車へとびついた男」、更には、パレードを見るために集まった群衆の背後に組まれた巨大なやぐらの上に並ぶカメラマンたちの写真などが掲載されている。

パレードの「行列は角を曲がって、四谷の通りへ出る。左側の聖イグナチオ教会の白い鐘楼には、十字架よりも大きい日の丸の旗が風にそよいでいる。その前にさしかかったとき、祝福の鐘がなりはじめた。そして百人の聖歌隊が『君が代』を歌った。つづいて、この日のために特に作曲された『皇太子さまおめでとう』が歌われた」。二万組という「あやかり婚」のカップルたちの結婚が恋愛によるものだったのか、見合いによるものだったのかは、わからない。しかし、このカップルたちにとっては、彼・彼女らをリードしていく存在として皇太子ご夫妻が位置していたのではないか。

同年五月一日に発売された『週刊平凡』創刊号の第一特集は「皇太子ご夫妻奈良の休日『君…』と呼ばれる美智子さま」、第二特集は「結婚への第三の道職場に相手はいなかった」である。後者のリード文は次の通りである。「クレオパトラの例をもち出すまでもなく、もし、ローン・テニス・クラブがなかったら、皇太子と美智子さんのラブ・ロマンスは生まれなかっただろう。もしもあなたが『お見合些では不満だが、かといって恋愛のチャンスにも恵まれない…そういった不満をお持ちだったら、『結婚への第三の道』といわれている若い人の社交場を、ちょっとのぞいてみてはいかが」。

自身の結婚に際し皇太子ご成婚を意識するしないにかかわらず、大衆レベルでは、見合い結婚にかわり恋愛結婚が主流になっていく。「一九四九年に結ばれた夫婦では三分の二が見合い結婚で、恋愛結婚は二割に過ぎなかったが、しだいに恋愛結婚の割合が増加し、一九六○年代後半に見合いと恋愛がほぼ同じ割合となった。以後恋愛が主流となり、現在(引用者注、一九九五年)では恋愛結婚が八○%を超えている。また見合い結婚と回答した夫婦でも、その七割が『恋愛感情の存在』を認めている。『親の判断』から『本人』重視へ、という結婚をめぐる価値観の転換が見られる」(湯沢雍彦『図説家族問題の現在』、八二頁)。図を見ると、皇太子ご成婚は、恋愛結婚の比率が本格的に上昇する直前に位置していることがわかる。

「近代家族」のシンボル

恋愛結婚で結ばれた皇太子ご夫妻のイメージについて、一九五九年(昭和三十四)当時、政治学者の松下圭一は次のように論じている。「(一九五八年)十二月三十一日、宮内庁記者会がだしたアンケートにたいして、皇太子妃は『家庭」をつくることが、私の課題だ、と答えたが、皇太子妃の言葉の意味をこえて、この「家庭」こそが大衆天皇制のシンボル価値である」「この家庭は、かつての家族国家思想にみられる家長支配型の『家族」ではないことはもちろんである。夫婦同権型のモダンなホームとしての「家庭』こそが、脱政治化した皇室の政治的存在理由となる」言戦後政治の歴史と思想』/九○頁)「このマスコミ・ブームによって新しく、皇室イメージが旧中間層的な「家族』から新中間層的な『家庭』へと転化したのである」(同書/九六頁)。

「夫婦同権のモダンなホーム」という表現は、『週刊平凡』創刊号の特集『君…』と呼ばれる美智子さま」を想起させる(ここでは、「こんどのご旅行を通して拝見したご夫妻の態度から、新しい皇室の姿が浮彫りにされてくるようだ」と述べられている)。なお、「新中間層」とは、「社会学事典」(弘文堂)によると、「物の生産に直接従事せず、企業組織に所属してもっぱら生産の組織化や生産場面での人間関係の調整、生産物の流通にかかわる職業に従事する。例えば専門・技術職、管理・事務職、販売職などの従業者」である。

松下の言う「夫婦同権型のモダンなホームとしての『家庭筐「新中間層的な『家庭』」を、「近代家族」と言い換えてもよいであろう。

ここで言う~「近代家族」とは、家族の社会史的研究から出てきた概念であり、その特徴は、次の八つであるとされる。それは、①家内領域と公共領域との分離、②家族構成員相互の強い情緒的関係、③子ども中心主義、④男は公共領域・女は家内領域という性別分業、⑤家族の集団性の強化、⑥社交の衰退とプライバシーの成立、⑦非親族の排除(⑧核家族)である(落合恵美子『二一世紀家族へ』/一○三頁)。

大正期に都市の中産階級が形成した「近代家族」は、一九五五年から一九七五年にかけて大衆化した(同書、二二頁)。一九五五年というのは、「中間文化」が拡大していく転換の時期でもある。「中間文化」の主要な媒体の一つは週刊誌であり、その主要な購読層はサラリーマン層(すなわち新中間層)であった。ちなみに、大正から昭和の初めそして戦後にかけて「サラリーマン」とは「インテリ」と同義語であったが、「近代家族」が大衆化していく時期は高等教育が「エリート段階」・「マス段階」へと拡大する時期に重なっており、「サラリーマン」も大衆化を迎えている(竹内洋「学歴エリート・教養・文化資本」宮島喬編『講座社会学七文化』/七二頁)。

ご成婚は、恋愛結婚が大衆レベルで主流になるさきがけであり、やはりシンボル的な存在であったと考えられる。また、週刊誌・テレビにより大衆のあいだに流通していった皇太子ご夫妻ひいては皇太子ご一家の肖像は、新中間層・「中間文化」の拡大と歩を合わせて大衆化していく「近代家族」の、やはりシンボル的存在であったと言えよう。皇太子ご夫妻の姿は、大衆が意識するにせよしないにせよ、過渡期という海原の天空に輝く大きな星のような存在であったのかもしれない。

皇太子の「ホーム」への強い願望

ところで、渡辺の連載では、皇太子のご学友の次の回想が紹介されている。「非人間的な家庭生活を強いられた皇太子は青春期、どうしようもなく情緒不安定で、どちらかといえば暗い性格に落ち込みやすかった」。渡辺によると、「終戦によって天皇は現人神から国民の象徴へ変わったが、皇太子の孤独な生活は変わらなかった。ほとんどの少年が持つ家庭というものを、皇太子は持てなかったのである」(九月十三日号/一三三頁)。

渡辺の文章をさらにたどりたい。「家庭を持つまでは絶対に死んではいけないと思った」。婚約後皇太子は美智子さまにそう語ったという。世界旅行のおり知り合った新聞記者に宛られた美智子さまのお手紙のなかには、「あたたかいホームを作ろうと決心いたしました」という一文があるという。「皇太子の夢は」「美智子さまの夢ともなったのである。あたたかい家庭——それは美智子さまの『いのちの旅』の一つの大きな目標でもあった」(九月十三日号/一三五頁)。「家庭を大切にすることは陛下(引用者注、皇太子)の基本的な考え方であった。御自身を、昭和天皇の『人間宣言』の実践者と位置づけておられるようにお見受けする陛下にとって、家庭こそはひらかれた皇室への出発点であり、根源なのである」。渡辺は、当時たたかれたという「マイホーム皇太子」という陰口をも紹介している(十一月二十五日号/一五七頁)。

ここに見られるのは、皇太子の「ホーム」への強い願望である。そして、そのモチベーションの重要な要素のひとつとなっているのは、一般の暮らしからは隔絶し、「ほとんどの少年が持つ家庭というものを」「持てなかった」「非人間的な家庭生活を強いられたこと」である。メディアに現れた皇太子の「近代家族」像を、一般の暮らしを営む(すなわち、「ホーム」をつくるという点においては、一見皇太子よりもはるかに「ホーム」に近いところにいる)大衆が見つめるというパラドキシカルな事態の出現を、われわれは見出すことができる。なお、美智子さまがご婚約に至るまで再三固辞され苦悩されたことは、先にも見たとおりである。

現在の感覚から見ると大衆の側は、皇太子ご夫妻(更には皇太子ご一家)に憧れを感じはしても、双方いずれの立場にもなりたくはないのではないか。マス・メ一一オアに現れたおふたりの像は、大衆の内面においてこのように相反する要素が共存したものだったのではなかろうか。


5件のコメント

>現在の感覚から見ると大衆の側は、皇太子ご夫妻(更には皇太子ご一家)に憧れを感じはしても、双方いずれの立場にもなりたくはないのではないか。

1950年当時であればそうだと思います。
しかし、現在では皇室の大衆化と拝金主義が進み、自浄作用も全くなく、いびつで極端なトップダウン構造が確立したので、ノーブルを維持する必要もありません。大衆としての人間性で充分なのです。気高さなど全く必要がない。
楽してお金が欲しければ皇族(男でも女でも)を誑し込みさえすればいい。そういう立場を狙っている大衆は増えているとおもいます。

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汎くて深くて鋭い御洞察。m(_ _)m

御推察にも誤りは無さそうに思います。

が、余りにも悲観的な気がして無念
です。

無理にでも、僅かにでも残っている筈
の、明るく希望的で気高いものに眼を
向けようではありませんか。

確かに、どんな事をしてでも芸能人に成って、
注目と金を得たいと思うのと大差ないレベル
に成り下がりましたねえ。

いや、芸能人を目指す方が研鑽と努力と、其
れなりの才能が要るかも・・。

尤も、思慮が浅く無能で在りながら、性に自
堕落な皇族が居ればの話だが・・・。

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こういうものに昔の人達は熱狂したのですね。しかし美智子さまが偶像化されていませんか?

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子どもの頃、祖母のところに時々やって来るおばあさんがおられました。彼女は文字が読めないため祖母に手紙を読んで貰いに来ていたのです。とても優しいおばあさんでした。
ある日彼女は感激した面持ちでやって来られ、聞けばお孫さんが有名大学に合格されたとのこと、その後別のお孫さんも医学部に合格されたと伺いました。美智子の時代には情報から遠く本当に小さい存在だった方々の子どもや孫曾孫の時代となりパソコン、ネット社会で海外からの情報も多くなり当時とは隔世の感があります。

メディアに現れた皇太子の「近代家族」像を、一般の暮らしを営む(すなわち、「ホーム」をつくるという点においては、一見皇太子よりもはるかに「ホーム」に近いところにいる)大衆が見つめるというパラドキシカルな事態の出現を、われわれは見出すことができる。
>>メディアに現れた(美智子の衣装代や舞台装置のための莫大な税金の投入によって)制作された「近代家族」像を一般の暮らしを営む一見皇太子よりはるかに「ホーム」に近いところに居ながら非人間的な重労働に喘ぎつつ勤労、納税、教育の義務を果たしている大衆が見つめるというパラドキシカルな事態の出現をわれわれは見いだすことができる。

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ABOUT US

稲生雅亮
元時事通信社編集委員、宮内記者会会員。明治大学卒業、時事通信社東京本社入社。大阪、千葉、岩手など地方支社局勤務の後、昭和48年本社に、同年宮内庁担当。昭和52年編集委員に。平成8年退社まで宮内記者会会員。昭和天皇崇敬会会報『昭和』に定期執筆。そのほかに、人物往来社や秋田書店などの皇室専門書を執筆、テレビの皇室特別報道番組、新聞、雑誌座談会など活動は多岐にわたる