幻のベストセラー「小説・美智子さま」を通して見る


文/稲生雅亮

マス・メディアに描かれた美智子さま

「天皇皇后両陛下の御結幡は、戦後、昭和天皇がおこなわれた『人間宣言」にも匹敵するほどの昭和史の大きな出来事である。それは『人間宣言」の文字通りの実践でもあった」

ご成婚時のパレード中継に日本テレビ入社二年目のディレクターとして関わり、以後美智子さまの節目節目を追い続ける特別番組の製作に携わったという渡辺みどりは、一九九〇年(平成二)『週刊文春』に、「美智子皇后いのちの旅」と題した美智子皇后のライフヒストリーを連載した(のちに単行本化)。テレビで皇室が報じられる際のコメンテーターとしてもおなじみの渡辺は、そのなかで上のように綴っている(「美智子皇后の『いのちの旅』」第二回/八月九日号/一六三頁)・小稿の課題は、マス・メディアの中で描かれたこの「実践」の過程をもういちどたどることである。

その主な題材の一つに、直木賞作家小山いと子の「小説美智子さま」を用いる。これは、幻のベストセラー小説である。「幻の」というのは、この作品が、「一冊の本になったら空前のベストセラーになるだろうとウワサされる力作」とされながらも(『平凡』一九六二年(昭和三十七)九月号/一八○頁)、単行本化されなかったからである。

『主婦の友』に連載されたのち一九五六年単行本化されベストセラーとなった『皇后さま』の続編として、この作品は、『平凡』の一九六一年一月号から一九六三年五月号まで連載された。

この掲載媒体である『平凡』を当時のマス・メディアの中に簡単に位置づけたあと、この作品を中心に、マス・メディアに描かれたおふたりの愛の軌跡を見ていきたい。

大衆娯楽雑誌と「小説美智子さま」

周知のように、一九五三年(昭和二十八)、日本でテレビの本放送が開始された。一九五六年(昭和三十二には初の出版社系週刊誌『週刊新潮」が創刊され、このあと十年間で五十数誌(四誌を除くとあとは全て出版社系)もの週刊誌が創刊(浜崎廣『雑誌の死に方「生き物」としての雑誌、その生態学』/四九頁)される「週刊誌ブーム」が開幕した。

一九五七年に刊行された社会学者加藤秀俊の『中間文化」で展開された「中間文化論」は、一九五五年以降を「中間文化の時代」とし、「中間文化」の台頭を論じたものである。この刊行から約二十年後、国文学者の前田愛は、この論を次のように整理・評価している。「中間文化というのは、書物でいえば新書、雑誌でいえば週刊誌というものに代表される軽装文化である。エリートの文化とも違うし、浪花節や講談、通俗小説に代表される大衆文化とも違うものが出てきて、その担い手はサラリーマン層であるという図式でした。いわば日常の生活を大切にするということが出てきたこと、週刊誌時代がはじまったこと、テレビが普及したことという状況にみあった発言で、かなり長い射程で中間文化論というのは将来を見通していたことになるのではないかと思います」(「戦後における読書の変貌」「思想の科学』一九七六年十月号/五頁)。

そもそも、皇太子妃決定を最初に伝えたメディアも週刊誌であった。宮内庁が皇太子妃の正式決定を発表したのは一九五八年(昭和三十三)十一月二十七日であった。前年七月二十四日に新聞協会が報道協定を結んでおり、皇太子妃決定のニュースは、この日の夕刊で一斉に報じられた。

この新聞報道以前に皇太子妃決定を「内定した!?皇太子妃その人正田美智子さんの素顔」と題しトップで報じたのは、『週刊明星」十一月二十三日号である。

未公刊の貴重な資料である楢原一郎「集英社私史」におさめられている赤井孝一キャップの証言によると、宮内庁記者クラブを中心に報道協定を結んだ新聞協会がその遵守を雑誌協会に求めてきたことに対し、「倫理的な使命を」「感じていた」赤井氏は、「雑誌界全体がなめられた」というふうな気持ちを抱いたという(同、九四頁)・皇太子妃決定を報じるに最終的に至ったのは、皇太子妃決定の報が「ニューズウィーク」に掲載されているとの知らせをニューヨークの先輩新聞記者から受け、アメリカ在住の友人に同誌を買ってもらい電話でその記事を英文のまま伝えてもらったことにあるという(同/九六頁)。

大衆娯楽雑誌は、こうした「中間文化」の台頭の中で翳りを見せていったメディアのひとつである。代表的な大衆娯楽雑誌「平凡」は、「歌と映画の娯楽雑誌」と銘打ち、(流行歌を伝える)ラジオ・映画と結びついた編集がなされていた。いうまでもなく、このふたつのメディアは、一九五八年(昭和三十三)にピークを迎えたあとテレビ普及の打撃を受けていった。また一九五九年十一月号からは「歌と映画の娯楽雑誌」のサブタイトルが『平凡』表紙から消えている。

詳細は省くが、週刊誌と『平凡』のご成婚報道を比較しても、多くの情報を早く伝えるという点では、週刊誌の方がふさわしいといえよう。しかしながら、時間をかけ取材・執筆をおこなった企画を発表する媒体として月刊誌は適当な媒体だったともいえる。当時「小説美智子さま」を直接担当した編集者はすでに他界しているものの、その上司であった方に筆者がインタビューしたところでは、この作品を執筆するにあたり小山が宮内庁の新聞記者に熱心に取材をしている姿に、触れたことがあるという。

最終回が掲載された頁の終わり、「連載を終わって……」と題した文章の中で、小山自身、「取材に協力して、陰になり陽になり便宜をはかって下さった多くの方々に感謝いたします」と綴っているほか「なるべく広範囲の取材の中から正確を期し」たとも述べている(一九六三年五月号/一二五頁。なお、『週刊新潮』一九六三年三月十一日号でも、小山は、「私はあれが実名小説であるだけにすべて事実に基づいて書いているとハッキリいえます」と述べている)。

この作品には連載当時大きな反響があった模様で、一九六二年九月一日から文化放送をキー局として日曜を除く毎朝放送がなされているとの告知が誌面に掲載され、それは一九六二年十二月号まで続いている。

同誌初代編集長でのちに『週刊平凡』『平凡パンチ』などを創刊した清水達夫は、自伝の中で、『平凡』に川端康成が連載した「遠い旅」という作品を紹介したあと、「もう一つ忘れられないのは、小山いと子さんの『小説美智子さま』である」とし、次のように回想・紹介している。

「正田美智子さんから皇太子妃美智子さまになられたヒロインの、皇室の中の厚いヴェールにつつまれた日常の生活ぶりを、作者の苦心の取材によって描写された力作小説で、国内はもちろん海外在住の日本人たちにも熟読された。私が一九六二年に、はじめてアメリカへ出かけて行ったとき、ハワイの放送局で電話リクエストのようなラジオの生番組に引っぱり出され、ハワイ在住の読者からの反響はすさまじいくらいのものであった。みんな『平凡』がとどくと、待ちかねていたように、『小説美智子さま』を読むのだという。そのころのハワイの日系人一世、二世たちは、日本の皇室に民間から嫁がれたシンデレラ姫物語に、深い関心を抱いていた様子である」。

「連載を終わって……」の中で、小山自身も次のように述べている。「北海道から九州に至る日本全国の読者、朝鮮、ハワイ、北南米の読者の方々から寄せられた支持と激励のお手紙に対して、厚く御礼申上げます」。これらからも、作品に対する反響の大きさを窺うことができる。

上の引用のあと清水は、「しかし、連載途中で、宮内庁より作者ならびに編集部に連載中止の要望があり、作者と協議の末、残念ながら未完のまま打ち切りとした」と綴っている(「二人で一人の物語マガジンハウスの雑誌づくり」/一六三〜四頁)。

連載禁止の要因は何か?

小山いと子『美智子さま』

連載中止の申し入れを、一九六三年(昭和三十八)三月十二日の各紙朝刊は一斉に報じている。翌十三日各紙朝刊の報道によると、十二日午後五時過ぎから清水は宮内庁の伊藤総務課長と一時間に渡って会見をおこない、五月号で連載をやめること(その広告にはこの作品の掲載をしない)、並びに単行本発行の意志はないことを表明した(ちなみに、これを報じる『読売新聞』の記事の下には、『週刊平凡』三月二十一日号の広告が掲載されている。

そこには、「特別よみもの理想的だった美智子さまのご懐妊」「カラーグラフおめでとう美智子さま天皇ご一家によろこびの春」の文字がある)。社史によると、五月号の発売日は三月二十四日である。

「連載を終わって……」において小山は、「最初はご結婚式までのつもりでしたが、もっとつづけて欲しいという読者の要望があまりに多いので、浩宮さまご誕生までにいたしました」と述べている。ここから、ご成婚に至る過程に小山の表現欲が最もあったことを窺うことができる。と同時に、それは、この過程に対する大衆の欲求の潜在的な反映ではないかとも考えられる。次回は、純愛から恋愛結婚そして「近代家族」の形成に至る、メディアに現れたその愛の軌跡を見ていきたい。

(後編に続く)


2件のコメント

ミッチーブームの時は新生女児の名前の上位に美智子が上ったそうです。
雅子様ご成婚の時は雅子が上位に上りました。

紀子ちゃんブームとマスコミが囃し立てた時は…
紀子(きこ)も紀子(のりこ)も統計的に有意な変動はなかったようです。

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異常な迄の目立ちたがり。本人は悦に入って
流させたであろう数々の写真・動画。そして
底の浅いアゲアゲ逸話。

魅力的なアテクシの筈が、歪んだ性根、低劣
・下俗な本性は隠し様も無い。

映像は正直ですねえ。品位の欠片も感じられ
ない。汚物に近づいた嫌悪感のみ。

粉婆以下、今だにこんなモノに群がる者共。
目にすれば眼が汚れ、相手にする必要など微塵
も無い者共なのに、しゃしゃり出てきて蠢き
廻る。

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ABOUT US

稲生雅亮
元時事通信社編集委員、宮内記者会会員。明治大学卒業、時事通信社東京本社入社。大阪、千葉、岩手など地方支社局勤務の後、昭和48年本社に、同年宮内庁担当。昭和52年編集委員に。平成8年退社まで宮内記者会会員。昭和天皇崇敬会会報『昭和』に定期執筆。そのほかに、人物往来社や秋田書店などの皇室専門書を執筆、テレビの皇室特別報道番組、新聞、雑誌座談会など活動は多岐にわたる