旧宮家の皇籍復帰は可能か? 十一宮家の古今をたどる


文/小内誠一

皇位継承

皇位継承者の安定的確保のため、政府は有識者会議を設置する方針で検討に入った。大島理森衆院議長は11日の記者会見で「政府において粛々と検討に入ってもらいたい」と思いを語った。

現在の皇室典範によれば男系男子にのみ皇位継承権が認められており、女性皇族は結婚と共に皇籍離脱するため、次世代の皇室には「悠仁さまお一人」という状況になりかねない。このような危機的状況を回避するために、「女系天皇」「女系天皇」「女性宮家」「皇女」「旧宮家復帰」の5案を政府は検討していくようだ。

だが「女性天皇」「女性宮家」「皇女」の三つは、「女系天皇」(母方の系譜をたどると天皇に行き着く)の呼び水になるとして一部の保守派は頑強に反対している。その保守者が力強く推すのが旧十一宮家のなかから男系男子を皇室に戻す「旧宮家復帰」案だ。

今回はこの旧十一宮家の仔細について解説していきたい。本当に皇籍復帰は可能なのだろうか?

皇籍離脱のいきさつ

旧十一宮家の臣籍降下はGHQ(連合国総司令部)の皇族削減政策に端を発する。戦前の大日本帝国では皇族は秩父、高松、三笠の三直宮に東伏見、山階、伏見、賀陽、久邇、朝香、梨本、東久邇、北白川、竹田、閑院の十一宮家から成り立っていた。

その具体的な動きは一九四五年(昭和二十)十一月の「皇族を含む皇室財産の凍結」の前後にすでに始まっていて、終戦処理内閣の首相を辞めたばかりの東久邇宮稔彦王の発言だった。彼は天皇に、三直宮以外の皇族と華族は、敗戦の道義的責任により「臣籍降下、栄爵を拝辞すべきである」と申し出ていたのだ。それに追い討ちをかけたのが、十月に入って賀陽宮恒憲王も臣籍降下を願いでていたという事実だった。宮内庁は十二月十二日に、一日一は「臣籍降下の勅許は下されない」と発表する。しかしながら翌一九四六年(昭和二十二五月二十三日には具体的な施策として、皇族から経済上のあらゆる特権と義務免除をはく奪する指令が出された。

皇籍離脱する皇族には昭和天皇の母、節子皇太后まで含まれるという案もでるなどの様々な議論が重ねられた末、同年十一月二十九日、昭和天皇が皇族一同(三直宮、十一宮)を宮内庁内の仮御所内に集めて「マッカーサー司令部の要請によって、秩父、高松、三笠の三直宮を除くき他の皇族は全員、臣籍に降下することに決定するような事情に立ちいたった。まことに気の毒であるがよろしく了承してほしい」と発言した。その後、臣籍降下が、十一宮家の自主的な天皇への請願という形で宮内庁に提出されたのは翌年五月一日のことだ。それを受け十月十三日、戦後初の皇室会議において請願は受理され、十一宮家へは臣籍降下後に一時賜金として皇室経済会議から二百万円から八百五十万円の範囲での援助がなされた(軍人だった東久邇宮盛厚王ら十一人は除く)。

伏見宮家

南北朝時代の、北朝第三代天皇の崇光天皇の皇子の栄仁親王より続く最古の家柄を持つ宮家。終戦時、第二十三代当主の博恭王は海軍元帥にまで昇りつめていた。一九四七年(昭和二十二)十月の皇籍離脱当時の当主は第二十四代博明王。

皇籍離脱後は、モービル石油に勤務し社内結婚する。また妹章子さんはサッポロビール社員、草刈広氏と、姉の光子さんは日本航空の社員とそれぞれ結婚した。弁天橋にあった伏見宮家の御殿は売却されて、現在はホテル・ニューオータニになっている。現当主の伏見博明氏には朗子さん、宣子さん、雅子さんと三人の娘さんがいるが男子は出生していない。

皇籍離脱後も「殿下」を称する伏見博明さん

閑院宮家

江戸時代中期の一七一八年(享保三)に幕府の儒学者新井白石が皇統の断絶をおそれ、天皇家皇統維持のための補完的な意味での宮家の創立を建言したことにより設立された宮家で、江戸時代末には後嗣がいなくなった際に伏見宮家より載仁親王を迎えて閑院宮家を継がせた。載仁親王は日露戦争にも旅団長として参加し、終戦の年の五月に陸軍元帥のまま八十年の生涯を閉じたが、皇族としては軍部にその権威を利用された。

載仁親王の長子第七代春仁王(のち純仁に改名)は、終戦時には陸軍少将。戦争続行をとなえる。戦後も東久邇宮稔彦王や賀陽宮恒憲王の皇籍離脱論に強硬に反対して、国民を指導する立場としての宮家の存続を主張し、皇籍離脱騒動の当時は最後まで皇籍離脱に抵抗した。

皇籍離脱後の閑院宮家の人々は様々な恋愛スキャンダルを起こした。一九五一年(昭和二十六)には世に言う華頂事件。春仁王の妹華子さんが華頂家に嫁いでいたにも関わらず、愛人を作って離婚したというスキャンダルが起こる。さらには春仁王の妻直子夫人も愛人を作って家出、七年近く揉めた末に協議離婚となる。の騒ぎの渦中、直子夫人は手記を発表し、そのなかで夫の同性愛癖を暴露したという話も残っている。その後、

閑院宮家は一九八八年(昭和六十三)、皇籍離脱後は春日倉庫、親和タクシーという観光会社の経営をしていた閑院純仁氏(春仁王が改名)が肝臓ガンで死去したことにより絶家する。永田町にあった閑院宮家の本邸は現在参議院議長公邸。小田原の別邸の跡地は小田原競輪場や短大のキャンパス。あるいは割烹旅館や学校の研修施設などになっている。

閑院宮春仁王

山階宮家

江戸時代末期の一八六四年(元治元)創立された伏見宮家より分かれた宮家。初代当主の晃親王は明治維新の前後に国事御用掛として活躍した。二代目当主の菊麿王は海軍に所属。軍務のかたわら気象学にうちこみ、自費で筑波山に気象観測所をたてるが、一九○八年(明治四十一)に三十六歳の若さで死去。三代目当主の武彦王は海軍に籍を置き航空隊に所属して“空の宮”として知られた。

そうして一九一八年(大正七)に賀陽宮邦憲王の次女佐紀子女王と結婚したが、彼女は武彦王の子を懐妊中の大正十二年、関東大震災で圧死する。武彦王はそれ以来、精神に異常をきたし、一九八七年(昭和六十二)に八十九歳で亡くなるまで、長く入退院をくり返す事になる。

武彦王の弟芳麿王は「山階鳥類研究所」を設立し、“烏の宮様”として有名。武彦王と芳麿王との関係では異母弟になる藤麿王は東京大学史学科を卒業後に靖国神社の宮司になるが、自分の邸宅に“筑波歴史研究室”を設け、かつ「国史学会」を発行するという精力的な活動を続けた。藤麿王の長男筑波常治氏は最近まで早稲田大学政治経済学部教授を勤め、次男の筑波常秀氏は真言宗山階派大本山勧修寺門跡として活躍した。

山階宮武彦王

梨本宮家

一八七○年(明治三)、やはり伏見宮家より分かれて創立。二代目当主の菊麿王は山階宮家より養子として入るが、後に山階宮家に復帰。三代目当主の守正王は菊麿王の後を受けて久邇宮家より梨本宮家を相続する。守正王は陸軍元帥となり、戦時中には伊勢神宮の祭主ともなる。

終戦時、皇族としてただひとりA級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに拘置されるが半年で釈放。しかしその間に集団強盗に屋敷を襲われたり、土地を乗っ取られたりと不幸が続く。守正王の二人の娘のうち方子女王は朝鮮の李王家の当主の李垠(イ・ウン)と一九一六年(大正五)に十六歳で結婚し、一九八九年(平成元)に亡くなるまで韓国で暮らした。

守正王の妃の伊都子妃はそのような状況の中、一九五一年(昭和二十六)の守正王の死後も“最後の貴婦人”として皇族らしい品位を守り一九七六年(昭和五十一)に逝去する。伊都子妃は一九六六年(昭和四十一)、久邇宮多嘉王の三男龍田徳彦氏を養子として迎えていた。そうして梨本家の当主となった徳彦氏は西武百貨店勤務などのサラリーマン生活を送り長男徳久氏、次男吉光氏(他女子一名)の三人の子をもうけたが、夫人の新興宗教熱を理由に離婚したこともあり現在梨本家に後継者はいないという状況になっている。徳彦氏は二〇〇七年に没し、梨本宮家は断絶した。

北白川宮家

一八七○年(明治三)に創設された宮家であるが二代目当主の能久親王は台湾で客死。三代目当主の成久王、四代目の永久王は共に陸軍に所属するが成久王はパリ郊外で自動車事故。永久王は蒙彊方面で演習中の飛行機事故と三代に渡り海外で命を落とす。

皇籍離脱後は高輪の本邸を衆議院議長公邸として売却するなど借家住まいをしながらも危機を乗り越え、成久王妃房子さんと永久王妃祥子さんが未亡人二人で五代目当主の道久氏を盛り立てて家柄を守った。しかしながら伊勢神宮大宮司の道久氏の子は尚子さん、宣子さん、明子さんとすべて女性である。

久邇宮家

昭和天皇の后、すなわち香淳皇后の生家が旧久邇宮家である。久邇宮家は一八七五年(明治八)に創立された宮家で伏見宮家より分かれた宮家である。戦後の皇籍離脱後の久邇宮家は香淳皇后の兄の朝融氏が、牧場の経営や菊の御紋入りの「久邇香水」の製造販売やダンスホール経営などの事業に手を出しては失敗の連続で、小説のモデルにもなった。蘭や薔薇などの花の栽培に活路を見出す。

元華族の親睦会である、霞会館の理事長をしている現当主の邦昭氏は神社本庁顧問。その妻正子さんの実家の弘世家は財界に隠然たる力を持った閨閥である。

また邦昭氏には長男朝尊氏(三菱商事勤務)と次男邦晴氏(石川島播磨重工勤務)の二人の子息がいる。朝尊氏に子女はおらず、邦晴は未婚である。邦昭氏の弟朝建氏には長男朝俊氏(日本生命勤務)がいるが男子の子はいない。

賀陽宮家

賀陽宮家は一九○○年(明治三十三)に久邇宮家より分かれて創立された宮家である。第二代当主の恒憲王は戦前は陸軍に在籍し、中将まで昇進したが、終戦後、敗戦の責任を皇室がとることを主張、積極的に皇族たちの皇籍離脱をとなえる。皇籍離脱後は、すぐに区役所に戸籍届を提出、賀陽を姓にしている。

恒憲王は野球が好きで“野球の宮様”といわれた。

賀陽宮恒憲王

また彼の姉由紀子女王が町尻子爵家に嫁ぎ、そこで生まれた長女の登喜子さんは講談社の二代目社長野間恒氏と結ばれるが、恒氏は一九三八年(昭和十三)に三十歳の若さで直腸ガンで早逝する。未亡人となった由紀子さんは当時満鉄に勤めていた高木省一氏を婿に迎えるが、この高木氏が後に講談社の中興の祖となる四代目社長の野間省一氏だ。

恒憲王の長男の賀陽家三代目当主賀陽邦壽氏は一九六八年(昭和四十三)参議院全国区に元皇族として初めて出馬するが落選。その後の再出馬も当選はかなわなかった。邦壽氏は京大生時代にある芸妓を見初め、その芸妓を落籍した後は彼女が亡くなるまで大切に面倒をみるなど愛に生きた人だったが、一九八六年(昭和六十一)に後嗣のないまま台湾で死去した。そうして旧賀陽宮家は邦壽氏の死去後、いったんは絶家するが弟の治憲氏が賀陽家を継いだ。

治憲氏は現在七十八歳だが恒憲王の三男章憲氏(故人)の長男正憲氏(外務省勤務)には二人の男子がいる。

東伏見宮家

一九○三年(明治三十六)に伏見宮家より分かれて依仁親王が創設。依仁親王には後嗣がなく東伏見宮家は一代で断絶したが一九三一年(昭和六)に久邇宮家第二代邦彦王の王子邦英王が臣籍降下したさい東伏見宮姓を賜り、東伏見伯爵となって束伏見宮家の祭祀を継ぎ、戦後の皇籍離脱に至る。

東伏見宮依仁親王

一九五五年(昭和三十)に依仁親王の妃の周子妃が八十四歳で死去したことにより、またしても東伏見宮家は断絶した。香淳皇后の弟である邦英王は戦後は僧侶となり、天台宗青蓮院門主束伏見慈洽氏
として二○○四年(平成十六)、九十三歳で次男の東伏見慈晃氏に門主を譲るまで、長く京都仏教会のリーダー的存在として活躍した。

竹田宮家

一九○六年(明治三十九)に北白川宮家から分立して初代当主の恒久王が創立。天皇から賜った竹田の宮号は皇室ゆかりの京都市・伏見の竹田に由来。

二代目当主の恒徳王は戦中は大本営参謀としてガダルカナル作戦にも参加。終戦時には天皇の特使として満州に赴く。戦後は繊維会社の経営に参与しつつ“スポーツの宮様”として知られた。日本体育協会理事、JOC委員長を歴任。東京及び札幌五輪の招致に尽力したり、“体育の日”の提案など国内外のスポーツ界で長く活躍した。竹田家は旧宮家としては例外的に男系の家系のようで、現竹田家当主の恒正氏には長男恒貴氏(大手商事会社勤務)。恒正氏の弟恒治氏には長男恒昭氏(電通勤務)がいる。恒貴氏、恒昭氏共に独身。

更にアテネ五輪にも選手団の団長として赴いた現JOC会長の末弟恒和氏には長男恒泰氏(作家)、次男恒俊氏(テレビ局勤務)、三男恒智氏(大手商事会社勤務)と三人もの子息がいる。また旧竹田宮家の本邸の跡は現在、高輪プリンスホテルになっている。

竹田恒泰氏

朝香宮家

一九○六年(明治三十九)に久邇宮鳩彦王が創設。鳩彦王は職前は陸軍に所属し、上海派遣軍司令官(南京事いわれ件の松井石根中将の後任)などを勤める。

戦後に皇籍離脱した後は、熱海で悠々自適の生活を送った。二代目当主の朝香宮学彦王は皇族として初めての陸軍パイロット。戦後は日本航空に入社する。

現当主の誠彦氏は東京芸大でチェロを専攻した後、イタリアに留学。現在はCBSソニーに勤務している。誠彦氏には独身の長男明彦氏(大手損保勤務)がいる。白金台にあった本邸は現在は東京都庭園美術館として一般に開放されている。

久邇宮鳩彦王

東久邇宮家

一九〇六年(明治三十九)十一月に旧皇族中最後に創立された宮家。初代当主の稔彦王は終戦直後わずか五十四日間であるが初めての「宮様総理」になった。しかしながら連合国総司令部(GHQ)と対立して辞任する。

皇籍離脱した後は、七百万円の一時賜金で新宿の闇市内に乾物屋や、東久邇宮家所蔵の骨董品を売る美術品店を開いたり、その半分を“東家”という喫茶店にしたりといろいろ新事業をするが総て失敗、二年間で一時賜金のうち五百万円を失う。その後も“ひがしくに教”という新興宗教の教祖にまつりあげられたりと皇籍離脱後は激動の人生を送り、平成に入って百二歳の天寿を全うした。

九十二歳のときには増田きぬという女性に勝手に入籍されるという裁判沙汰に巻き込まれる。二度にわたる、国を相手にした邸の返還を求めた裁判では払い下げや和解という結果になるが、高輪の邸は現在ではホテルパシフィックになっている。

東久邇宮稔彦王

東久邇宮家の系譜は子宝に恵まれ、最も子息が多いため、皇位継承に関係する子息のみ記す。稔彦王の長男盛厚王は成子(香淳皇后の長女)とのあいだに長男信彦王(全日本野球会議名誉会長)、次男壬生基博(山階鳥類研究所理事長)、三男眞彦(伊藤ハム)の三人の息子がいる。長男信彦には征彦(三井生命)と男子の孫がいる。壬生基博にも若い男子の孫がいる。三男眞彦には長男明彦と次男睦彦(未婚)がいる。その長男明彦には男子ががいる。

皇位継承問題にからみ東久邇家がたびたび取り上げられる理由は、旧宮家の仲で男系子孫が豊富にいるのが唯一、東久邇家だからである。だが東久邇家は最もスキャンダルを起こしてきた宮家であることは注意を要する。


7件のコメント

それぞれの宮家の方々の生き様を見ますと時代背景もあるのでしょうけれど波乱万丈ですね。

当時SNSがあったら夫々凄い事になっていたかもしれません。

しかし今ある醜聞よりまだマシでしょうか。

皆さん色々ご意見があると思うのですが、私は皇位継承に男系男子に拘るのは、天皇家にとってこの上無く残酷な「伝統」だと思います。犬のブリーダーじゃあるまいし男子出生を強要するのは如何なものかと。21世紀の今、こんな話は日本の奇習でしかないと。

某ミヤケが男の子を捻りだしてしまった為に、もう少しで改善すべき環境が拗れてしまい、この野蛮な奇習はこの先も続くようになってしまいましたが、私が生きているうちに良い変化が起きて欲しいと願ってやみません。

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ももたろう様
犬のブリーダー
本当にそうですね(笑)
側室制度を復活させられない現状で
男系男子に拘れば行き着くところは
科学の力に頼らざる得ないかと思い
ます!
人格、資質、能力よりもただ男性で
ある事のみを優先する現皇室制度。
同じ男性の世界である歌舞伎の世界
では養子縁組を繰り返しています。
相撲の世界は海外の選手が大半です。

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伝えるべきもの、残すに値するものに、
真剣に対するべき刻なのでしょうねえ。

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小内さま、資料的価値のある記事をありがとうございます。

敬宮愛子さまこそ次の天皇陛下に、と祈るような気持ちの私ですが、一方で、もし旧宮家の男子と良いご縁があり愛子さまへの無理強い無しに自然とご成婚となったなら、仮に愛子さまが(男系)女性天皇となられたときにも無用の風当たりは避けられるのでは、と夢のような虫の良いことを考えたりもいたします。その場合は愛子さまにとって選択肢がたくさんあるほうが良いですものね。

でもこのような考えは、上のコメントの方が言われる「奇習」の片棒を担ぐことになりますので、やっぱり複雑ですね。

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日本人は、いつまで天皇を必要とするのでしょうか?国が若いころには、国家の統一や、外国との関係樹立、国の基本的な進路を決めるのに、天皇は重要な役割を果たされました。そのころは両親ともに皇族でなくては天皇としての権威を保てなかった。律令が国の理想として示されたけれど、実態はだんだん合わなくなってきて、平安時代になり藤原氏の摂関政治が始まり、実質的な天皇の力はなくなってしまった。その貴族政治も、社会の実態にあわなくなり、幕府の時代が始まり、南北朝時代に後醍醐天皇が巻き返しを図ったけれど、それは社会の実態と乖離していて、すぐに天皇は「官位」を与えるだけの存在になってしまった。明治維新では「天皇中心の政治」に戻ったというけれど、実際は政治家や軍部の言いなりだった。戦争に敗け、自信を失った国民を励まし、国際的な日本の印象を良くするために、「皇室外交」は役に立ったのだろう。上皇后の華やかな消費生活は、平成バブルの気分にマッチしていたのだろう。が、もはや時代は変わった。 
令和の天皇皇后両陛下や、敬宮様は大変立派な方だが、まじめで考え深いお方なのに、その資質の一部分しか活かされないお立場に閉じ込められてしまっている。敬宮様が皇太子になられたらいいと多くの国民が望んでも、ご自身はもっとその才能を活かせる人生を送りたいと思われるかもしれない。皇室に残りたいと希望するのは、「ニッコリ笑って手を振り、目の前の原稿を上手く読んで見せれば、チヤホヤされて贅沢ができる」生活を夢見るひとだけだろう。

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永らく続いてきた皇室の実態は、簡潔に
お纏めに成られた通りと思います。

『皇室に残りたいと希望するのは、〜』
に照らしても、お若い頃から覚悟を示し
て居られた今上陛下は、稀な御方と感じ
ます。

改めて、今上陛下への尊崇の念を新たに
します。

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幼い頃より、皇族・象徴の重さを体感
されていた今上陛下ほど、つましく
とも、静かな一般人の暮らしを願われ
た御方は無いかも知れない。

其の上での象徴の御覚悟で在ろうと
思う時・・・m(_ _)m

皇族特権を其のままに、『天皇止ー
めた。』を実行してしまった御方との、
何たる違いであることか・・。

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