最初の女帝「神功皇后」は、なぜ“西洋人”風に描かれたのか?【皇室見聞録】


監修/小内誠一・稲生雅亮

女傑と聖母の顔を持つ皇后

歴代天皇が崩御後、神として祀られることは多々あるが、妻である皇后が祭神となった珍しいケースがある。それが、神功皇后である。大正末期になるまでは日本最初の女帝としても数えられていた。有名なところでは水戸光圀の『大日本史』が神功皇后を「天皇」として数えている。

この神功皇后(西暦2世紀から3世紀)は、第14代・仲哀天皇の妻として『古事記』『日本書紀』に登場する。

天皇の即位後、九州の熊襲が再度反乱を起こしたため、神功皇后は夫とともに討伐に赴いた。そして傑県(現、福岡県)の香椎宮に陣を敷くと、住吉三神を名乗る神から神託が下った。それは「不毛の地である熊襲よりも、金銀財宝に満ちた西方の新羅国を攻めよ」という内容であった。ところが仲哀天皇は、「西方は海ばかりで国土など見えない」として神託を無視してしまう。その結果、天皇は熊襲討伐に失敗し、志半ばに死を遂げることになった。

神功皇后は急死した夫に代わって神託に従い、新羅討伐のための船団を組織した。その際、福岡の大三輪社に刀と矛を奉ったところ、たちまち兵士が集結したという。

やがて朝鮮半島に上陸すると、彼女の威に打たれた新羅の王は戦わずして降伏、さらに百済や高句麗までが服従を誓ったとされている。これが「三韓征伐」の伝承である。

まさに女傑という言葉が相応しいが、一方では聖母としての顔も持っていた。それを伺えるのが「鎮懐石伝承」だ。

遠征中に懐妊したことを知った皇后は、鎮懐石と呼ばれる小石を腰につけ、出産を遅らせる呪術を行った。そして、通常より遥かに長い15カ月の妊娠期間を経て、第15代応神天皇の出産にいたったという。これは神の力の表れであると考えられ、聖母であることを示す逸話とされている。



関西圏に多い神功皇后由来の神社

この神功皇后を祀っているのが、関西圏を中心に2000社以上存在する住吉神社だ。総本宮は大阪市にある住吉大社である。室町時代に編纂された『帝王編年記』によると、神功皇后が新羅討伐の成功を感謝し、住吉三神を祀ったことがはじまりだという。

皇后に神託を告げた住吉神は、皇后の遠征の際にも荒波を鎮めるなどの加護を与えたと伝わっている。こうした伝承から、航海の安全を守る海の神として信仰されるようになっていく。海辺に鎮座した社が多いのは、そのためである。住吉大社の周辺地域も、古代は海に面した天然の良港であった。

そして皇后と一緒に祀られている住吉三神も、海に由来すると考えられている。三柱とも「ツヅノオ」という名がつくが、この由来は「津々之男」、つまり津(港)を守る神という意味があるといわれる。

さらに関西には西宮市の廣田神社、神戸市の長田神社、生田神社、京都の藤森神社、和歌山市の
淡島神社のように、神功皇后と三韓征伐にまつわる由来を持つ神社は多い。



神功皇后は西洋人?

このように天皇以上に国民から親しまれた神功皇后は、お札の「顔」にもなっている。明治14年に政府が発行した改造一円札や明治四十一年発行の五円切手、そして企業公債などは神功皇后の肖像である。

紙幣に描かれた神功皇后

驚かれた方も甥だろうが、日本人には見えない。顔だちも衣装も、西洋風ともインド風ともよく解らない風貌だ。「神宮皇后は西洋人だった!?」と思われる方もいるかもしれないが、そうではなない。これは公債と紙幣に刻まれた神功皇后が、イタリア人彫刻師のエドアルド・キヨッソーネによるものだった影響である(植村峻『紙幣肖像の歴史』東京美術、1989)。

紙幣研究に詳しい植村峻さんによれば神功皇后は印刷局の女子職員がモデルになっており、「神功皇后の肖像を彫刻するに際してキヨッソーネは、『古事記』や『日本書紀』の神功皇后に関する部分を読み、“幼ニシテ聡明叡智、貌容壮麗”という『日本書紀』の唯一の容貌に関する記述を頼りに、古今の浮世絵や役者絵、彫像なども参考にしてデッサンを始めたと考えられる」とのことだ(『お雇い外国人キョッソーネ研究」、中央公論美術出版)。



神功皇后は実在しなかった?

やがて住吉信仰の広まりとともに、神功皇后も各地で崇拝されるようになる。鎌倉時代には仏教と習合して聖母大菩薩と称されるようにもなった。

ただ現在では、神功皇后は斉明天皇や持統天皇などの女帝をモデルにした、神話上の人物であったと考えるのが一般的だ。

ただし、三韓征伐神話に関しては、全く荒唐無稽な話でもないとする指摘がある。

古来、朝鮮半島と日本の間では人や物が絶えず往来していた。当然、紛争が起こることもあっただろう。三韓征伐神話にそんな両国の衝突が反映されている可能性もないとはいえない。なかには、663年に日本が朝鮮半島に軍事侵攻して敗れた、「白村江の戦い」が三韓征伐のモチーフになったという意見もある。

その勇ましさから、明治時代以前までは天皇とみなされることもあった神功皇后。『日本書紀』がのちの概念に従って皇后を「摂政」と捉え、一巻を載せて天皇に準じた扱い方をしている点は注目される。さらに、『日本書紀』は神功皇后を「魏志倭人伝」に登場する有名な卑弥呼になぞらえようとするが、実在性には乏しいといえる。

明治から太平洋戦争後までは、軍国主義の精神を支えるために武神の姿が強調されていたが、今日では安産や子育てを司る聖母神として信仰を集めている。彼女が身につけたといわれる鎮懐石が、京都府の月読神社や福岡県の鎮懐石八幡宮巻とに奉納されたと伝わるなど、100年前とかたちは違うものの、その信仰は続いているのである。


4件のコメント

神功皇后は実在しなかったのかもしれませんが、女性は守護神だったり、人々を鼓舞する存在だったり、祭祀を司ったり等々、いにしえには讃えられる存在でもあったのではないでしょうか。

埴輪にも胸の大きな豊穣神があります。平塚雷鳥も「元始、女性は太陽であった」とも言っています。そして持統天皇など有名な女性天皇もいらっしゃいます。

コロナの時代にあって、天皇皇后に温かく育まれた敬宮愛子さまの穏やかな品の良い笑顔に、人々を癒やされます。
どうか愛子天皇が実現しますように。あの時それが実現していたら、このような惨状を恐れることもなかったのではないでしょうか。一宮家でいてくださっていたら、まだしも。

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面白い記事を有難うございます。

皇后陛下のお顔が西洋人というのも驚きだが、当時のひとはそれだけ当時の今上両陛下を拝する機会が無く、太古の昔の皇后陛下のお顔でも不思議に思わなかったのかも???

記事にある神託を受ける話で思いましたが、天皇家の本来のミッションは日本や日本国民の平穏を祈る事ですよね。それが国民の前にグイグイ出て来てお手振りご公務が主流になってしまい随分チープになってしまいました。傍系とはいえキリスト教の学校に行ってしまう内親王もいて、それが今のカオスにつながる。

八百万の神々がまだ日本を見捨てていない事を祈ります。

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初めてコメントさせていただきます。
場違いな内容だったら、すみません。

神功皇后のお話は、現代のざわつきをかき消してくれるようで、興味深かかったです。

卑弥呼は、女性で、且つその地域で祭祈を執り行う象徴のような存在と捉えてよいのでしょうか?
いつから女性ではなく、男性でないといけないと風潮になったのか気になります。

土地や財産を守るために、男性が持つ力強さ、武力のニーズがあったと捉えております。

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敬宮愛子さまは、小学校のご卒業文集に藤原道長の日記を研究されたりされたそうですね。
大学でも、色々とご研究が纏められ国民に発表していただきたいです。
お小さい時から、文才もあって読み手に「感動」を与えて下さいます。
楽しみにしております。

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ABOUT US

稲生雅亮
元時事通信社編集委員、宮内記者会会員。明治大学卒業、時事通信社東京本社入社。大阪、千葉、岩手など地方支社局勤務の後、昭和48年本社に、同年宮内庁担当。昭和52年編集委員に。平成8年退社まで宮内記者会会員。昭和天皇崇敬会会報『昭和』に定期執筆。そのほかに、人物往来社や秋田書店などの皇室専門書を執筆、テレビの皇室特別報道番組、新聞、雑誌座談会など活動は多岐にわたる