「雅子を皇室入りさせてはならぬ」 昭和天皇、驚愕のご遺言?


文/宮本タケロウ

驚くべき新事実

「昭和天皇が雅子さまの入内に反対だったことをご存知ですか?」

27年前、日本中が感動した「皇太子ご成婚」に関する取材を進めていると、驚くべき「事実」を語る人物に遭遇した。彼女の名前をHさんとしておこう。Hさんは現在は愛知県在住だが、親族に昭和後期から平成初期にかけて宮内庁で働いた関係者がいるらしく、本サイト主催者の小内誠一さん曰く、「昭和後期の皇室に異様に詳しい人」である。

Hさんによれば、天皇陛下と雅子さまの「運命の出会い」は1986年に赤坂御所で開催されたスペイン王女歓迎パーティだったということはよく知られているが、当時から華麗な「お妃候補」の一人としてリストアップされていた雅子さまに時の英主・昭和天皇が「反対した」らしい。

昭和天皇が反対した理由は、雅子さま祖父の江頭豊の経歴だった。ご存知の方も多いだろうが、江頭豊氏は公害病・水俣病を引きおこした企業「チッソ」の会長を務めていたのである。

「チッソの問題で昭和天皇は小和田雅子さんには賛成していませんでした。当時官房長官だった後藤田正晴氏も『皇居に筵旗(「むしろばた」、水俣病の運動で使われた)が立つ』と反対。

当時の富田宮内庁長官が『小和田さんはチッソの件がありますからお諦めください』と、浩宮さまを説得して、一度は殿下も納得したんです」(Hさん)

(水俣病運動で使用された「莚旗」。確かにこれが皇居に立つことは避けたい)

英主・昭和天皇の大御心(おほみこころ)

後に、「小和田雅子さんではだめでしょうか?」と熱烈に雅子さまを見定めることになる天皇陛下だが、いったんこの時は諦め、雅子さまはお妃候補から一時外れたとのことだ。

しかし、“小和田雅子さんという選択肢”が、数年後に再びリストアップされることになる。それは、Hさんの談によれば「小和田雅子さんに反対していた昭和天皇が崩御されたから」だそうだ。

「雅子さんに反対を続けていた昭和天皇がご崩御された直後です。これを覆した人がいました。皇太子さまと雅子さんの二人を自宅で密会させた元外務次官の柳谷謙介氏と『江頭豊に水俣病の責任なし』として雅子さんを皇室に送り込んだ団藤重光です。団藤氏は最高裁の判事を退職したのち、1989年から宮内庁参与を務めていた人物です。

これは、本当ですよ。昭和天皇が病にお倒れになった途端に、小和田雅子反対派の富田長官を解任し、一気に工作が始まったんです。雅子さん入内反対派の富田宮内庁長官は更迭され、賛成派の藤森長官に代わった。そして宮内庁参与の団藤重光が『江頭豊にチッソの責任なし』と。こういう流れでした」(Hさん)

(ご成婚パレード時の雅子さま。本当に昭和天皇は賛成していなかったのだろうか)

初めて聞く話に目が丸くなってしまったが、富田宮内庁長官は警察官僚出身で、宮内庁次長として宮内庁に入る前は内閣調査室で勤務していた。そういうことを考えれば、「富田長官が水俣病で問題になったチッソ会長の江頭豊を祖父に持つという雅子さまの“家庭の事情”を危機管理上のインシデントとして捉えていたということは、あながちうがった考えではないだろう。

それほどまでに当時の公安関係の官僚にとって“水俣病”は懸案事項だったのだろう。

富田宮内庁長官と後藤田官房長官

富田宮内庁長官は元警察官僚だが、富田長官が警備局長だった時期(1970~73年)の警察庁長官は後藤田正晴氏(任期:1969~72年)であった。二人が有能な警察官僚として上司と部下だった時代に、日本で最も重大な社会問題となっていたのが水俣病の訴訟活動だったのである。

その数年後、富田氏は宮内庁長官に就任するが、富田氏が宮内庁長官であった時期(任期:1978~88年)に、雅子さまがお妃候補に浮上する(1986年10月)。そしてその頃、ちょうどタイミングよく、官房長官を務めていたのは後藤田正晴氏(任期:1985~87年)であった。

「『公害の関係者を皇室に入れてはならぬ』という昭和天皇の遺命を守って、富田長官と後藤田官房長官の二人が全力で防いでいたのが小和田雅子さんの入内でした。けれども、二人は数年で別ポストに交代。結局、1993年に皇太子さまと雅子さまはご結婚されることになります。

幸いにして、入内後、雅子さまの祖父のことは世間から忘れ去られ、才色兼備の素晴らしい皇太子妃として華やかに皇室デビューをされました。結果を見れば多くの国民が雅子さまを慕っているので昭和天皇のご配慮は杞憂に過ぎなかったと言えるでしょう。

(元外交官としてレセプションで海外VIPを華やかにおもてなしされる皇后陛下)

けれど、昭和天皇の大御心に反したご結婚が正しことだったのかどうか、私には決められません。ただ言えるのは、昭和天皇は雅子さまの皇室入りに賛成されていなかったということだけです」(同上)

以上が、Hさんが私に語った衝撃の事実の全貌である。

真実なのか?

今回のHさんの話は真実なのだろうか。

例えば、昭和天皇は上皇陛下と美智子さまの婚約には、香淳皇后や女性皇族がすべからく反対したにも関わらず、反対しなかったということも事実である。この事実から考えると、個人の責任ある選択にあえて「反対だ」と、口を出すのは昭和天皇らしくないとも言えるだろう。

しかし、同時に、「雑草という名の植物はない」と、生きとし生けるもの、自然の全てを愛された昭和天皇は昭和4年から海洋生物の研究を始められ、採集を行った葉山御用邸付近の相模湾の浅瀬の海をこよなく愛したことで知られている。海を愛された昭和天皇が“水俣病”の問題に非常に心を痛めていたのも有名だ。

とすると、確かに、昭和天皇が仮に雅子さまの祖父の事情までご存知でいたのなら、“雅子さまをお妃候補としては良い顔はされなかっただろう”という推測は首肯できるだろう。

最後にHさんのこんなエピソードも紹介したい。

「1993年のご成婚当時の内閣には法務大臣として後藤田氏が入閣していましたが、最後まで後藤田氏は反対したといいます。『なぜそこまで反対するんだ?』と宮澤総理が後藤田氏に聞くと、後藤田氏は『オレは反対じゃない。オレはただ昭和天皇の言いつけを守っているだけだ』と言い返したそうです」(Hさん)

Hさんが言うには「昭和天皇が反対した」という天皇陛下と雅子さまのご成婚だが、それから30年が経とうとしている今、多くの国民は雅子さまを心からお慕い申し上げているのは間違いない事実だ。

今回、Hさんを紹介してくれた小内誠一さんに取材内容を伝えると、こう語ってくれた。

「Hさんの言う通り、昭和天皇が仮に『両陛下のご結婚に反対していた』のだとしても、両陛下は、その昭和天皇のご配慮を良い意味で打ち砕く、完全な存在になられたということになるでしょう。両陛下の末永いお幸せを願いたいですね」(小内誠一さん)


31 件のコメント

  • 崩御を待ってたかのように婚約発表したのは違うカップルですよ
    皇太子ご夫妻のご成婚はずっと後なのですが?

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    • 昭和天皇が反対されていたのは、『川島某不快也』で、紀子さんの事ですよね。私も聞いたこと有りますし昭和天皇が崩御された後に婚約発表したのは礼宮の方ですし。宮本さん出鱈目な記事を上げないで欲しいです。

      30
      1794
  • Hさんがどなたか知らないけれど、最後の小内さんの言葉で内容が事実ではないことがわかる。
    公害の関係者とはいえ、会社と被害者の保証に尽力された方を昭和天皇が悪く思われるはずがない。
    それに父である小和田さんは昭和天皇の御用掛を務めている。
    紀子さんのスライドですかね。

    582
    1760
    • 江頭さんという方は、チッソ問題を解決するために、銀行から出向された方だと何かで読みました。チッソの会社の会長というのは、ガセネタですね。姑息な誰かさんが、嘘情報をマスコミに吹き込んだのでしょう。ネットが発達している今は、マスコミでの印象操作は無駄ですよ。

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    • 雅子さまのお父様、小和田恒さんが昭和天皇の御用係だったのは昭和48年から52年までの間。
      雅子さまは昭和36年生まれ。
      ということは、小和田恒さんが昭和天皇の御用係になられた時、身辺調査されていたはずなんです。
      昭和天皇がチッソの件で反対していたんならば、小和田恒さんを御用係にしてないんです。(奥方様は江頭豊さんの娘だから)
      そのことだけで昭和天皇が雅子さまのことを反対していたという事実はなくなる。

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  • 皇太子の妃探しが本格したのは、

    昭和天皇の崩御後に弟君が喪中婚約した後ですが、、。

    それこそ川嶋某不快なりで有名な話で、

    何でもかんでもスライドですか???

    550
    1761
  • 昭和天皇は雅子さまのことを反対していた要素はありませんでした。
    チッソの件で反対したのは時の宮内庁長官の口を借りた女帝さまの方だった。
    その理由は女帝さまの実妹の嫁ぎ先が新潟水俣を発生させた渦中だったから。
    雅子さまの皇室入内の件は当の水俣被害者が祖父と孫は違うと懇願して時の宮内庁が納得したのではないですか。

    418
    1767
  • ここまでやる?

    皇后様のお祖父様がチッソの社長をしていたが,それは公害を起こした側ではなく,補償をするために当時の長銀?から出向なさった方でしょう?

    この記事の筆者は前にそれに関する記事を書き、自ら江頭氏と皇后様のお立場を明確にしていましたよね。
    それに昭和天皇の崩御を待っていたかのような書き方、それは別のカップルの事でしょう?

    ここまでやるように司令を受けているんだ?
    前に宿題出しましたね,もう一つの,新潟県のミナマタを取材してって。
    覚えてます?

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  • 皇太子さまと小和田雅子さんの正式ご婚約で県内各地から祝福の声
    =福島知事ほか3人 皇室・皇太子妃

    「熊本日日新聞」朝刊  1993年1月20日

    皇太子さまと小和田雅子さんご結婚の“障害”の一つとされたという水俣病問題。
    宮内庁に説明に出向いたこともある福島譲二知事は、「誤解が解けて結ばれ、 心からお喜び申し上げます」と話している。
    同知事によると、労相当時の平成元年秋、故寺本広作元知事が訪ねてきて、「宮中では雅子さんの祖父=江頭豊さん(84)=がチッソの社長だったことが支障になっているとうかがっている。誤解を解いてほしい」と相談を持ち掛けられた。

    そこで、福島知事が宮内庁に「小和田さんの祖父は水俣病発生とは無関係です」 と説明に行ったという。
    知事は「今ごろ、寺本さんもきっと喜んでおられることと思う」と感慨深げに振り返っ ている。

    一方、江頭元社長は昭和四十三年九月の水俣病公害認定直後、社長としては 初めて認定患者や遺族宅を訪問。
    おわびの言葉を述べた。

    自らも認定患者で、両親も死後認定された浜元二徳さん(56)=水俣市袋=は、 「『長い間、大変ご迷惑をかけました』と江頭社長が頭を下げたことを思い出す」 と当時のもようを話した。
    江頭社長は、浜元さんの両親の仏壇に線香を上げた後、強くなった雨脚が弱ま るのを浜元さん宅で待ったという。
    「非常に低姿勢で丁寧なあいさつだったとの 印象が残っている」という浜元さん。「雅子さんは孫の代なので水俣病と直接結び付ける気持ちはない」とも話した。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    1931(昭和6)年
    昭和天皇、近代産業を牽引する日本窒素水俣工場を激励するためにご訪問。

    終戦後の1949(昭和24)年
    昭和天皇、水俣工場をご訪問。

    ~~~~~~~~~~~~~~

    チッソでの公害発見・・・昭和31年
    江頭氏のチッソ社長就任・・・昭和39年
    (タイムマシンでもない限り江頭氏が公害を起こすことは不可能)

    昭電の公害公式確認・・・昭和40年(この年に製造工程図を消去、製造プラントを撤去)
    正田恵美子氏の結婚・・・昭和38年(この年までに2度の阿賀野川の汚染があった)

    正田恵美子は、上皇后美智子の実妹。

    416
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    • ありがとうございます。

      詳しい内容をよく書いてコメント下さいました。
      内容をよく覚えておきます。

      204
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  • 海軍少将 山屋他人。
    (明治41年東宮御用掛、大正8年に海軍大将、雅子皇后の母方曽祖父)

    明治40(1907)年  11月
    山屋他人は、ポルトガル、スペイン、フランス、オーストリア等各国より勲章贈与されます。「大将傳・海軍編」
    後年、更に欧米各国から非常に高位の勲章を贈られています。

    山屋他人大将の葬儀で葬儀委員長を務めたのが、おなじ岩手出身で海軍の後輩の米内光政前首相。

    山屋他人大将は昭和15年9月10日に亡くなられています。
    当時の年譜には「薨去」と書かれている記事もあります。

    新聞には「山屋大将邸に勅使を御差遣」として、「12日午前11時、勅使内藤侍従を差遣し、幣帛を下賜あらせられた」とあります。

    また同時に、「海軍葬次第決まる」として、13日に青山斎場で行われ、葬儀委員長に、2か月前まで首相だった米内光政大将、幹事にやはり同郷の八角三郎中将以下28名と出ています。
    (朝日・昭和15年9月13日)

    昭和天皇は、雅子皇后の曽祖父である山屋他人大将(昭和天皇の御用掛をされていた)に幣帛を下賜されている。

    昭和48年9月17日 月曜日
    午前、新宮内庁御用掛 小和田恒の拝謁を、鳳凰の間においてお受けになる。

    ~~~~~~~~

    もし昭和天皇が御存命であらしたら、御用掛であった小和田恒の娘である雅子を「浩宮の妃として、将来の皇后として、相応しい女性である。」とおっしゃったと思う。

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  • 雅子さまが初めてメディアに登場されたのは今でも覚えています。才色兼備の二代目外交官として週刊誌のグラビアに登場されたものでした。そのすぐ後に浩宮妃候補として女性週刊誌に名前を挙げられていたけど、メディアが勝手に作り上げた妃候補で、こんな素晴らしい才色兼備の女性が浩宮妃になんかなるはずがないと思っていました。
    ですから皇太子妃に決定のニュースにはびっくりしました。お祝いムード一色で祖父が元チッソ社長だというのを気にする人はいなかったと思います。
    昭和天皇が雅子さまに反対されたのは本当かしらと思いますが、A級戦犯の靖国合祀以後、中国等に配慮して靖国神社参拝をやめちゃった昭和天皇ならあり得るということですかね。そういえば、昭和天皇健在のうちに浩宮妃決定をと某令嬢との結婚話が本格的になったのに、某令嬢の先祖が台湾総督府の関係者だったため結婚話が無くなったとかの話も雑誌に書かれていました。

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  • 宮本氏お得意の雅子さまの応援と見せかけた批判(いつも紀子さま批判を雅子さまにスライドさせてさも事実のように書いてますよね)

    チッソの社長をなさったのは事実でしょうが、後処理のために入られたことは有名ですよね?
    他の方も書いてらっしゃるけど、前皇后の妹御の嫁ぎ先の新潟の方こそ、見て見ぬふりですよね?

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  • 雅子皇后陛下を貶めて、秋家・上皇后上げをしようとしているのか、と思ってしまいます。
    それだけ非の打ち所がないということだと思います。
    Yahooコメントでは、皇后さまの立派さ、特に父方家系の素晴らしさ、父方祖母様のお人柄の立派さを書くと、削除されます。(二度も!)
    よほどそのことが気に入らないのでしょうね。

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  • 昭和天皇がお元気な頃
    侍従の方に
    浩宮の結婚の話はどうなっているか
    とお尋ねになりました
    侍従がチッソの件があり話しが進んでいません
    それと父方の4代前までは分かっているのですが
    それより前の調べがまだ終わっていません
    とこたえましたところ
    そういう事も大事ではあろうが
    こういう事は早く進ませるのが肝要である
    あまり遅くなると浩宮の好きな人がいなくなるではないか 迅速に話をすすめてみてはどうか
    と思し召し。
    平成のはじめごろ侍従さんの想い出話にありましたよ
    雅子さんをどうのこうのではなくて
    お年を召した天皇にとって頼みの綱、浩宮の選んだ人なら早く結婚させてあげたい
    という気持ちが伝わってきて当時よんでウルッとしました

    228
    1770
  • この記事を書いた宮本タケローという男は何の証拠もない、あるいは証拠を捏造して”嘘の話を書く”上皇后美智子や秋篠宮キコのしもべの三流記者です。
    実際、雅子皇后様のお爺様はチッソ被害者への救済として社長になったのです。上皇后美智子の実の妹の嫁ぎ先の舅が前社長、つまりこの公害を起こした”加害者”なのです。
    美智子はその事実を隠ぺいし、皇后様に責任をなすりつけるために宮本タケローのような三流記者を使ってマスコミにデマを流しているのです。

    因みに美智子は実の孫の敬宮様に「あなたのお母さんは”犯罪加害者の孫”なのです。お母さんが皇室入りする前に、回りから”加害者の孫”だからと言って随分反対があったのを、この私が皆を説得したから結婚できたのよ」と同時まだ7歳か8歳かの幼い敬宮様に告げました。実の妹の嫁ぎ先の事実を隠す為に!

    228
    1767
    • 何と姑息で卑劣な婆で在ることか・・。

      もう大方は出尽くしただろうと想って居りましたが・・。
      底なしですねえ。

      小細工をすればする程、悪あがきすればする程、

      半端頭の演る事だから、ボロを出すだけで逆効果
      なのにねえ。^_^

      9
      1318
    • 相変わらずのタケロウならぬタワケロウの戯言には呆れ返るばかりだ。タワケロウのコメントは常に秋篠宮家の忠実な飼い犬として天皇御一家を誹謗中傷する事のみである。

      121
      1773
      • バ○に尾を振って・・。

        先行きが読めないんでしようねえ。

        自分で前途を閉ざしてる。^_^

        8
        1316
      • 何でタケローがこのサイトに記事を書いているの?
        ああ、均衡を保つためね・・
        良い記事ばかりだとまた消されるから

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  • そもそも雅子さまのお祖父さま江頭豊氏は、水俣病問題解決また経営難に陥ったチッソの経営立て直しの為に日本興業銀行から派遣されたお方です。なので元々法的責任すらありませんし、当時は会長でもオーナー経営者でもありませんよ。

    なんせ汚染は戦前から始まっていて、それらの原因が報告されたのは1956年。江頭豊氏が銀行を退社されチッソに出向なさったのは1964年です。
    お役目通り全身全霊をかけてこの事件に対応し、水俣では「土下座の江頭」と言われたくらい被害者からのあらゆる批判・非難を受け止め低姿勢で真摯に誠意をもって成し遂げたことは、水俣患者の間でも有名な話です。

    また小和田家は婚約内定を固辞しています。

    昭和天皇が崩御なさったのは、その後。
    なのでお二人のご結婚に反対なんて時系列として無理な話です。

    ちなみに喪中で自粛の最中にヘラヘラと婚約発表をなさったのは、礼宮さまと紀子さん。

    小和田家と雅子さまにお詫びしご結婚に向けて再度説得なさったのは宮内庁参与だった団藤重光氏ですが、この方は美智子さまの側近でしたよね。美智子さまのご意向で説得なさったとの話もありますが、
    そうそう、原因が自社工場から流出していると分かってからも垂れ流し続け第二水俣病を起こし経営者の一族に美智子さまの妹が嫁いだことを記事になさってみてはいかがでしょうか。

    179
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  • 読者の皆さんのコメント情報がすごい。

    これらコメントは永久保存版ですね。

    削除されないことを祈ります。

    チッソと雅子妃のことは以前からなんとなく断片的情報としては知っていたのですが、正確な情報としてはこのみなさんのコメントで初めて知りました。

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  • 昭和3年  昭和天皇の大礼(即位の礼)が京都御所で行われる

    雅子妃の曽祖父で、当時62歳の山屋他人大将(すでに予備役となって引退しておられる)も列席。
    「大禮(昭和天皇の即位礼)に参列の海軍将星」と題された記念写真では最前列に、山屋他人氏も含む明治・大正以来の歴代大将が並び、ずらりと揮毫(サイン)している。
    (この大礼については、当然のことながら「国立国会図書館デジタルライブラリー」や当時の新聞などに多くの写真が残っている。)

    山屋他人を含め、歴代大将方は、「海軍大将」、「親任官」、「勲一等」、「旭日大綬章」始め、それぞれに最高位にあたる参列資格をいくつも有しているので、即位礼当日の「賢所大前の儀」、「紫宸殿の儀」をはじめ、「七儀」すべてに列席しておられたはず(もちろん、夫人も同様である)。

    公文書等の記録によると、山屋他人は「親任官」として、晩年までずっとこうした即位礼を始めとする宮中行事など冠婚葬祭、各種催しには出席している。
    山屋他人は、日米開戦も、その後の敗戦と海軍の消滅をも知ることなく、昭和15年9月に75歳で薨去された。

    昭和天皇の御用掛をされていた山屋他人の葬儀に、昭和天皇は幣帛を下賜されている。

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  • 大正元年(1912年)9月  明治天皇の大喪礼が行われる。

    明治天皇の大喪礼に出席するために、スペイン王族のアルフォンソ公ボルボン殿下が訪日。
    その滞在中の接遇を、雅子様の曽祖父で後に海軍大将となる山屋他人少将(当時)が拝命される。

    雅子皇后のもう一人の曾祖父である江頭安太郎氏も、海軍省の公文書から「大喪儀海軍事務委員長」をつとめておられたことが分かるが、残念ながら翌大正2年に若くして中将で逝去。

    山屋他人海軍少将。
    大将昇進は大正8年、明治41年に東宮(大正天皇)御用掛となる。
    S16年『大将傳』より。

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  • 雅子皇后の、もう一人の曾祖父である江頭安太郎。

    旧佐賀藩士に生まれ、旧鍋島藩主に選ばれて(鍋島侯爵の貢進生)上京、攻玉社から海軍兵学校に進み主席卒業、入省後の昇進、数々の要職歴任。

    「病気危篤の旨、天聴に達するや、特に勲二等瑞宝章を授けらる」とあり、この「天」というのは大正天皇のことである。

    最期の叙勲の際の海軍省、内閣、宮内省の各公文書を公文書館のデジタルアーカイブに保管されている。

    江頭安太郎は若いころから、海軍大将はもちろん海軍大臣も確実と言われた逸材だった。

    江頭杏太郎については、多くの官報や公文書は言うに及ばず、その立場上当然のことながら、当時の新聞や名士を集めた人名録等にも記事や写真を見つけることができる。

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  • 雅子皇后の曾祖父、山屋他人海軍大将については、「宮中行事」や皇族の「冠婚葬祭」など、皇室との関わりを示す多くの公的資料が残っている。

    ◆ 東宮(のちの大正天皇)への御進講。(国立国会図書館デジタルコレクション)

    ◆ 明治43年 東宮御用掛として皇太子葉山行啓に伴う出張の仰せ付け。)国立公文書館アーカイブ)

    ◆ 大正元年 明治天皇大喪にあたり、来日したスペイン皇族の接遇。(「日本外交文書」)

    ◆ 大正2年 有栖川宮威仁親王(海軍大将)薨去に際して、山屋他人少将(当時)は海軍省人事局長として、舞子の有栖川宮家別邸に向かう。(有栖川宮は明治8年に海軍兵学校に入学。在学中、兵学校の学監を雅子妃の高祖父・古賀喜三郎(江頭安太郎中将の岳父)が務めている。)((国立国会図書館デジタルコレクション)

    ◆ 大正5年 神武天皇式年祭に海軍省勅任官総代(当時中将)として参列。(国立公文書館)

    ◆ 大正9年 横須賀鎮守府長官として東宮(後の昭和天皇)の帰還をお出迎え。(宮中行事等ではなく日常的な軍務)

    ◆ 大正13年  皇太子殿下(のちの昭和天皇)御成婚。(「皇太子殿下ご結婚関係」と題された公文書)

    ◆ 昭和2年  大正天皇大喪の礼(「霊轜霊輦側供奉将校の件」と題された公文書)

    ◆ 昭和3年 昭和天皇即位の大礼

    ◆ 昭和初期には、観桜会と観菊会に参列。(宮中席次に山屋他人の名前あり・夫人も記載されている)

    ◆ 宮中賢所での行事についても、晩年まで招待があった。

    ◆ 山屋他人は大佐以降、世界各国から非常に多くの勲章を授与される。スペイン、オランダなど複数回授与され、オーストリア、ポルトガル、中国、英国(バース勲章)からも授与されている。(国立公文書館より)
    位の高い勲章としてフランス「グラン・オフィシェ」、ルーマニア(一等勲章)、米国、イタリア(一等勲章)。

    雅子皇后には、天皇と先祖との直接的関わりが多々あり、それは公文書に残っている。
    しかし、まだ戦前の慣習が色濃く残っている昭和33年の正田美智子には、こうした要素が全く無いのは事実である。

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  • ホントかしら?本当だとしても、雅子さまご本人には何の非もなかったのだなという感想しか私は持ちませんけどね。

    ホントかしらと思う理由のひとつとして、
    ここのところ↓

    >雅子さんに反対を続けていた昭和天皇がご崩御された直後です。 

    「ご崩御」←この言い方間違いですからね。「崩御」の中にすでに尊敬も丁寧も入ってますから。

    68
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    • 同感です。

      親兄弟、先祖親戚がどうであろうとも、全ては本人次第。

      陰湿・凶暴・勘違いが、こうまで甚だしくなかったら、
      係累が引き合いに出され、とやかく言われる事も無いだ
      ろうに・・。^_^

      生れつきと云うには余りにも・・。どうしてコンナのが世
      の中に現れたのか?信じられない程のシロモノです。

      2
      1303
  • 明治十七年の県令許可書『鮭産育規則』に、小和田金吉の名前が記載されている。

    『大正十三年三年改調 漁業権者名簿』には、小和田毅夫の名前が記載されている。
    住所は「村上本町三百八拾番地」であり、これは小和田家の本籍地である。

    明治7年以降、廃藩置県で生きる糧を失った村上藩士たちは三面川の永久管理権を取得する。
    (村上は江戸時代に世界初となる鮭の人工繁殖に成功した町である。)
    (塩鮭は、上杉謙信の時代より存在している。)

    明治15年  村上鮭産育養所を設立。 旧藩士たちの生活が大いに潤う。
    旧藩士であれば、鮭の水揚げによる収益は村上に住む者だけではなく、村上から離れざるを得なかった旧藩士の子孫にも分配される。

    明治17年の県令許可書に小和田金吉の名前が、大正13年の「漁業権者名簿」に小和田毅夫の名前が記載されているということは、小和田家は村上藩士の家柄であると証明できる。

    小和田毅夫は、育英会の前身である鮭産育養所の漁業権者名簿に記載されている。

    参考資料

    1993年8月 『市報むらかみ 皇太子殿下・雅子さまご成婚記念特別号』村上市役所企画財政課編出版 

    1993年  『皇太子妃のふるさと村上』上村 吉蔵著  

    1993年  『お城山だより No.25』村上城跡保存育英会編出版 
    (収録されている斎藤光雄の「制剛流柔術と祖母と」からも小和田家の家系が判明している。)

    1995年  『お城山だより No.27 』 村上城跡保存育英会編出版 

    2006年6月 『鮭の子ものがたり   歴史に残る人々』 村上城跡保存育英会編出版 

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  • 宮本タケロウこっちにも出てくるんかい?
    もういいい加減に回りくどいこじつけ理論で皇后様にケチをつけるのは見苦しいですよ。
    あっちで好きなだけお書きになったらいいんじゃないですか。
    もうあなたの記事の署名を見るたびオチは見え見えですから不愉快で私は読みません。

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